本日8月8日は次女25歳の誕生日です。
生まれた時のことを思い出すと、長女の時はエコーの画像で男の子だと言われて生まれたのが女の子で驚きと共にとても嬉しかったのですが、次女は生まれる前から女の子と確信していて、案の定女の子でホッとしました。
私は若い頃から娘を持つのが夢でした。
娘とショッピングや旅行に行ったりするのが憧れでだったので、希望通りにしかも二人も娘が出来てとても嬉しかった!
ただ次女は生まれてすぐ黄疸が強くて、未熟児室に運ばれ光線治療を開始。黄疸の値が下がらなかったら交換輸血すると医師から説明を受けて、かなりショックを受けました。
その後何とか治療が上手くいって退院することが出来ましたが、その時の詳細を日記に書いていました。
一部抜粋して紹介します。
8月9日(土)
黄疸が強く出るという話は私もそうだったと聞いているし、友人の娘もそうだったという話を聞いていたので、そんなに大したことではないと思っていた。
ところが、暫くしてナースステーションに呼ばれ小児科の先生(当直の女医さん)から、普通3~4日目位に黄疸が出るのだが、1日目から強く出るケースはあまりなく、ビリルビン値もかなり高いので、光線治療をして暫く様子をみたい。
もしそれで値が下がらなければ交換輸血をする必要があると言われた。
そんなに酷いの?!少し重たい気分になる。それでも私は明るく振舞った。
心の中で私は大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせていた。
10分も経たぬうちに未熟児室に呼ばれる。
靴を履き替え中に入ると、看護婦さんから入る時の消毒の仕方、服の着替え方など教えてもらう。
こんなに厳重なの?と思うほど体の隅々まで殺菌する。
中にもう1つドアがありそこでも靴を履き替えて手を洗う。
やっと我が子に会える。見ると保育器の中に目を白いテープで覆われ、おむつをしただけの裸で悲しそうに泣いていて、まぶしい程の緑色の光を浴びさせられている。
手と足の2か所に小窓があり、手の方の窓を看護婦さんが開けてくれている。
手を握って声を掛けると私の声に反応して少し静かになったが、また悲しそうに泣き出した。
胸が痛む。目頭が熱くなったが必死でこらえる。
暫くしてお別れを言うと、また悲しそうに泣いている。
後ろ髪を引かれる思いでその場を離れる。
早くあの状態からあの子を解放してあげたい、その思いだけが強く残る。
未熟児室を出た後も、目から涙が出るのを必死におさえていた。
少し落ち着いてから家族に電話して、今見たばかりの光景を話す。
涙が溢れて止まらない、我慢していたものが一気に噴き出す。
今読み返しても涙が出てきます。
健康で生まれて来てくれることがどれほど幸せなことかを思い知らされました。
元夫がなぜか?名前を考えようとせず、私が良い名前をつけないとこの子が死んでしまうと必死で考えて名前をつけました。
本人につけた名前について聞くととても気に入っているそうです。
次女はその後も健康面で心配事が尽きませんでしたが、無事にここまで成長してくれたことに感謝です。
次女の3歳年上の長女のことも少しお話します。
小学校5年生の時、担任ぐるみでいじめにあって、そこから必死に抜け出そうと自分から中学受験したいと言い出しました。
元夫がなんで公立に行かないの?いじめに耐えることも必要だと思うし、私立なんて最初から俺のビジョンにないと猛反対でしたが、私の責任で受験させて無事第一志望校に合格、学費は私が支払いました。
入学すると暗い顔をして何も話さない子がみるみるクラスの人気者になり、卒業する頃は学校で良い意味でも悪い意味でも、かなりの有名人になりました。
その長女の楽しそうな姿を見て、元夫が次女も受験させ、結果同じ学校に入学したので、私の選択が間違っていなかったことが証明されました。
私は家族の道しるべ、困った時は正しい方向に導いてあげることが役割だと思ってきました。
私のやれることはやると決めて、食事も手作りでウチはなるべく薄味を心掛けて、お弁当も9年間朝5時半から起きて作りました。
悩んでいる時は一緒にとことん考えました。
私からあれこれ動くことも多かったし、ちょっとおせっかいだったかもしれません。
家族のためにすることは全く苦ではなかった、そういう姿を娘達は今までしっかり見ていてくれたんだと思います。
娘達が居てくれたから、私は今まで生きて来られたと言っても過言ではありません。
離婚したのも娘達の助言があったから、今度は娘達が私の道しるべです。
私の元に生まれて来てくれて本当に本当にありがとう。
娘たちは私の掛けがえのない宝物、心から感謝です泣
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